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 議員という仕事柄、たくさんの人とお会いします。また、市内、県下は当然として、日本中をとびまわることも多いのです。誰とお会いしても、どこを訪問しても、教えられることがたくさんあります。そんな活動の一こまを、写真とともにご紹介いたします。

 生活と健康を守る会が市交渉 11.8.30(火)
 別府市生活と健康を守る会は8月25日別府市と交渉し、午後1時半から5時まで話し合いました。
 7月25日に提出していた要求書に基づき、20項目の要求項目について文書で回答があり、各項目について担当課長らと順次話し合いをもちました。
 会員14人が参加し、自身の経験を話し要望しました。

 生活保護については、働ける健康状態の人には就労支援を強化するとともに、健康状態がよくない場合などは健康状態を十分把握し無理な就労指導はしないこと、などを実情を訴え要望しました。
 市は職員を指導していくと答えました。

 就学援助については、昨年のこの交渉で、準要保護の家庭にも生徒会費・PTA会費・クラブ活動費についても補助するよう要求しました。
 市議会でもくり返し要求し、今年度から生徒会費とPTA会費が今年度から補助されるようになりました。

 低所得の家庭が年々増えて、別府市で就学援助を受ける家庭は、小学校で14%、中学校で17%(昨年度)に上ります。低所得の家庭の子どもたちが経済的理由で部活ができないということがないよう、クラブ活動費も補助するよう求めました。
 これに教育委員会は「他市の状況も調査しながら検討したい」と答えました。

今後もみなさんと一緒にがんばります。


 原発ゼロへ学習会 11.8.27(土)
 私たち日本共産党別府市議団主催で、8月20日伊方原発について考える学習会を開きました。74名が参加していただきありがとうございました。
 松山から中川悦良(なかがわえつろう)氏をお招きし、愛媛県での原発反対の運動の経験などをお話していただきました。

 中川さんは84歳。日本共産党愛媛県議を6期つとめ、原発反対運動を44年続けられており、現在も「伊方等の原発の危険に反対する愛媛県民連絡会議」顧問です。

 日本共産党県議が初めて当選した1967年。中川さんは、県議に初当選して2回目の県議会で、「原発が絶対安全という根拠は何か」「県は住民の福祉を守る立場に改めよ」などと質問。これに知事が「偏見による批判はやめていただきたい」と答弁したことを問題にし発言取り消しを求めたそうです。
 これを愛媛新聞は社説で「穏当を欠く”偏見”答弁。取り消すのが適当だ」と書いたそうで、その記事のコピーもいただきました。

 この質問は、不破哲三氏が国会で原発反対質問をしたのよりも9年ほど前です。日本共産党が原発に対ししっかりとした方針を50年前から持っていたから、このような今でも通用する質問ができたんですね。
 それにしてもすごい方です。「原発議員といえば中川議員」と誰もが認めるそうです。健康づくりにも努力され、体力年齢は59歳と言われたそうで、とてもお元気です。
 議員を引退されてからアメリカやヨーロッパなどに自費で勉強に行かれたそうです。中川さんの生きる姿勢に、「すごいなぁ」と驚き大変勉強になりました。

 中川さんは、「国民の命と安全を守るのが政治の仕事。今、原発問題がゆがんだ日本の政治をなおす最大のテーマになっている。これほど重要なテーマはない。瀬戸内海の地域での共同した取組みが必要だ」と連帯した運動を呼びかけられました。


 生活と健康を守る会が県と交渉 11.8.16(火)
 8月11日、健康と生活を守る会大分県連合会(福間健治会長)の県交渉がありました。毎年行なっているものです。31項目にわたり事前に要望書を提出し、当日文書で回答があり、各担当者と話し合いを持ちました。

 守るから会員さんが参加し、実態を訴え改善を求めました。日本共産党の堤栄三県議も参加し、要求実現を求めました。

 毎年要望してきたひとり親家庭の医療費助成制度の現物給付への(立て替え払いが必要ないように)改善。この問題での県の回答は、「ひとり親家庭の一時的な経費負担の軽減を図る上で重要な課題と認識しており、実際の給付者の方や市町村、関係機関の意見をお聞きし、また他県の状況も参考にしながら、現物給付方式の導入の可否について、今後検討していきたい」というものでした。私は早い時期の実現を求め発言、質問しました。

 市町村を通じて児童扶養手当の現況調査の際にアンケートをとり、アンケート結果は9月上旬に把握する予定、との回答でした。アンケートを始めるというのは一歩前進です。
 子ども医療費助成制度は現物給付が実現しています。実現に向けご一緒にがんばりましょう。

 また、げんきニュースでお知らせしたように、介護保険料は来年4月に全国平均で月1000円あまり上がることが予想されています。「今でも高くて大変なのに、値上げなんてとんでもない。下げてもらいたい」と声が上がっています。
 守る会は、「介護保険の国庫負担増額を国に要求し保険料を引き下げること」と要望しました。

 これについて、県は「都道府県の財政安定化基金を取り崩し、介護保険料の軽減に活用できるようになった」「所得区分を細分化することを可能とすることを国が検討している」「国の財政負担割合を増加することを本年6月に国に提言した」などと回答しました。
 話し合いの中で、大分県の財政安定化基金は42億円あり、どのくらい取り崩すかは今後国が方針を示すことなどがわかりました。

 今後さらに、介護保険の値上げを許さない、引き下げ求める運動が大事になってきます。ご一緒にがんばりましょう。


 納涼音頭大会 11.8.9(火)
 7月31日、別府夏の宵祭りの納涼音頭大会に市議会として参加しました。

 私もほぼ毎年参加しています。私は踊り全般苦手です。でも、「やっちき」など別府の盆踊りは大好きです。

 いい汗をかいて楽しかったです。


 終戦直後の悲劇を伝えたい 11.7.26(火)
 大洲の石碑を見る
 伊方原発に行くときに大分市の大洲運動公園に寄りました。昔飛行場があった場所にある石碑を見るために。
 石碑は大洲運動公園の体育館の東側の緑地、川に近いところにあります。

 1945年(昭和20年)8月15日、正午に玉音放送があり戦争が終わりました。ところが終戦を迎えた後にもかかわらず、その日の午後4時半にこの地から出撃して死んでしまった若い特攻隊員たちがいたのです。「最後の特攻」と言われています。

 第5航空艦隊指令長間の宇垣纏(うがきまとむ)中将の命令で、中津留達雄大尉ら11機22名もの部下を道連れにしたのです。命令もないのに宇垣の独断で出撃した「私兵特攻」でした。

 出撃での自決をやめるよう進言した幕僚の言葉にも耳を貸さなかったようです。宇垣は終戦を知っており、前日には攻撃中止命令も受け取っていたが、ともに出撃した若者たちには敗戦は伝えられていなかったそうです。22人のうち17名が帰らず、彼らはだまされたまま19歳から24歳という若い命を落としてしまったのです。

 最後の特高を伝える石碑
 美化して伝えられてきた面もあるのではないでしょうか。しかし、遺族の方々はどんなに悔しかったことか。本当にひどい話です。「自決するなら宇垣っちいう人がひとりで自決すればよかったのに。こんな将来ある若い人たちを道連れにしなくてもなぁ」とみんなで話しました。敗戦を知らされないままなど、汚いやりかたで許せません。

 大分出身の中津留達雄さん(当時23歳)のお父さんはこう語っているそうです。
 「私にとっては、たった一人きりの息子でしたからなあ。それも戦争が終わった放送の後でっしょうが。宇垣さんは部下を私兵化して連れて行ったわけですわ。私はそのことで、ずうっと宇垣さんを怨み続けてきましたわ。戦後しばらくは、その事を考えると気が狂うごとありましたもんな」

 この特攻の話は聞いたことがありましたが、その時は信じられないような気持ちがどこかにあったように思います。初めて碑を見て「こんな事実が身近にあったんだ」と実感し、衝撃を受けました。この歴史を伝えなければならないと思いました。


 平尾広喜さん米寿おめでとうございます 11.7.26(火)
 平尾広喜さん
 生活と健康を守る会大分県連合会の顧問であり、元日本共産党大分市議の平尾広喜さんが88歳を迎えられ、7月22日、大分市の守る会主催で米寿のお祝いがありました。

 平尾広喜さんは、1963年6月に明次郎さん(当時大分市議、後に県議。初代守る会会長)とともに大分生活と健康を守る会を結成し事務局長となりました。以来48年間にもわたり、生活と健康を守る会の会長や顧問として活動されています。今も現役でいろいろな相談活動や市や県との交渉など、活躍されていらっしゃるのですから、すごい方です。

 お祝いの会で、平尾さんは会の結成当時のことを話してくださいました。「生活保護を受けていたひとり暮らしの74歳の男性Nさん。音信不通だった息子さんが、長い間親不孝をしていたのでとテレビを買ってくれた。当時、生活保護世帯はテレビの保有を認められず、『テレビを売らなければ生活保護を打ち切る』と市役所から迫られていた。Nさんは『このテレビを売ると、立ち直ろうとしている息子の心を傷つける』と悩んでいた。そんなそれぞれの悩みを持ち寄り、市役所と交渉しようと話し合った。ためらいもあったが、生存権を保障する憲法のことや、みんなで力をあわせることの大切さを話し合って……」と、会の意義をいつも私たちに教えてくださいます。

 平尾さん、今後もお元気でご指導ください。


 原発ゼロをめざし力をあわせよう 11.7.25(月)
 伊方原発 テロ対策でいつも海上保安庁の船が停泊している
 いまの原発の技術は未完成で危険なもので、原子炉がかかえている放射性物質「死の灰」をどんな事態がおこっても内部に閉じ込めておく完全な技術を人間は持っていないということが、福島の事故で明らかになりました。

 原子炉は戦争目的で開発されたものだから安全性が軽視されているんだ、と不破哲三さん(日本共産党前議長・党社会科学研究所長)が言っています。原爆の開発から9年後の1954年、超スピードで原子力潜水艦のための原子炉(動力炉)を開発され、すぐに民間に転用したそうです。安全など二の次三の次であわてて作った原子炉の弱点が、いまの原子力発電にそのまま残っている、ということです。

 核兵器の禁止と自然エネルギーへの転換を訴える国民平和大行進
 私たち日本共産党市議団は、6月の別府市議会で「原発の安全対策強化と原発からの撤退を求める意見書」を提出しましたが、反対多数で不採択となりました。社会党系の民主クラブ提出の「原子力発電所の安全対策の強化等を求める意見書」は全会一致で採択されました。もちろんこれに共産党も賛成しました。できれば、この二つの意見書を一本にできないかと相談したのですが、私たちは、安全対策の強化はもちろん大事だけれど、安全対策を強化すれば原発を続けていいのかというとそうではない、という考えです。
 国民平和大行進
 「脱原発」と言ってもいろいろな考え方があり、いつまでに原発をなくすのか、などについては大いに議論しよう、考え方は違っても方向性が同じなら力をあわせていこう、と日本共産党は呼びかけています。
 風力発電
 伊方に行ったとき風力発電がありました。大分県は地熱発電が全国一です。

 いま原発は総発電量の25%あまり。節電・省エネで5年から10年で電力消費量を10%程度減らし、自然エネルギーをいまの総発電量の9%から2.5倍の20〜30%に引き上げれば、原発分をカバーできる。原発ゼロは無理な話ではなく、原発からの撤退を決断してこそ、自然エネルギーの開発・普及と低エネルギーに向けた本格的な取り組みを進めることができる。こう日本共産党は提言しています。

 みなさんはどう思いますか。


 伊方原発に行きました 11.7.23(土)
 平野文活別府市議と私
 放射能への不安がますます広がっています。放射能は目に見えぬまま地球上をひろがり続け、何万年という単位で放射性廃棄物は放射能を出し続け、危険性が続くというのです。死の灰を何万年も冷やし続けなければならないというのですから、とんでもない代物です。こんな危険性は飛行機事故など他の事故とはまったく性格が異なるのものです。実証実験ができないものですから、どのくらい危険なのかさえ専門家にもわからない、危険性が計り知れないものです。
 九電のやらせメール事件で玄海原発を止めた笠井亮衆議院議員と
 東京にいる長女が結婚しました。これから生まれてくると思われる新しい命が心配です。私は「安心して子どもを生み育てられる社会」を願って、子育て支援など取り組んできましたが、安心して子どもを生み育てられる社会ではなくなってしまった、と感じています。
 大分から参加したみなさん
 私たちは、7月16日、愛媛県の伊方原発を見に行きました。佐賀関からフェリーで1時間少しの距離。伊方原発から別府まで直線距離で65キロほどです。伊方ビジターハウスという伊方原発をPRする施設に行き、原発の施設は敷地の外から見て、日本共産党八幡浜市議の遠藤もと子さんらのお話を聞かせてもらいました。
 伊方ビジターハウスで
 伊方原発1号機は設計寿命と言われる30年をすでに3年以上経過し、2号機も来年30年になります。3号機では、住民の反対を押し切って、いっそう危険なプルサーマルがすすめられてきました。南海地震と東南海・東海の地震が同時発生する可能性もあり、伊方原発の沖合い約6キロには活断層があります。「伊方等の原発の危険に反対する愛媛県民連絡会議」は、1号機を停止させ廃炉にすることや、プルサーマルを中止することなどを求め署名活動を行なっています。

 遠藤市議のお話では、岩国の米軍基地の海兵隊のヘリコプターが低空飛行の訓練中に原発から300メートルのところに墜落した事故があったそうです。札束で原発に賛成させていった、海上保安庁の船がテロ対策のためいつも原発近くの海に停泊している、などいろいろお話を伺いました。

 笠井亮衆議院議員の講演
 日本共産党の元議長、不破哲三さんの講演「『科学の目で』原発災害を考える」が150円のパンフレットになっています。私はこれを読んで100万キロワットの原発が1台動くと毎日毎日広島型原爆の3発分の”死の灰”がたまり、1年で1000発分をこす”死の灰”がたまる、この”死の灰”は何万年も放射能を出し続ける、ということを知り衝撃を受けました。
 日本共産党は、5年から10年で原発をなくそうと提言し、国民的議論を呼びかけています。私たちも、期限を決めて原発を撤廃するよう求める署名活動に取り組んでいます。

 市長の問題発言に問題回答 11.7.20(水)
 公開質問状を手渡す
 7月11日に日本共産党市議団は浜田博市長の問題発言について公開質問状を提出しましたが、15日に市長より回答がありました。

 市長からの回答は「ご指摘の発言については、日頃より市政運営にご協力いただいている市民の皆様に感謝の意を表するとともに、依然として厳しい経済情勢が続く中にあって少しでも別府市の発展、景気回復に寄与したいとの思いからであり、今後の別府市政の執行にあたっては、これまでと同様に『市民の目線』で誠心誠意、適正な運営に努めたいと考えております」というものです。
 
 意味がわからない……。発言の撤回もなく何の反省もない、全く居直った回答です。

 市長は「私は公平・公正の思いを間違っていた。(中略)8年前市長に就任したとき、選挙をしてくれた人しない人も平等に指名したが、(中略)今回はご恩になった人にしっかりご恩返しをする」と言っているんですよ。建設団体との懇談で市長選挙目前に!

 それに対する質問の回答で「ご協力いただいている市民の皆様に感謝の意を……」「別府市の発展、景気回復に寄与したいとの思いから」だなんて、不況の中で苦労している市民をバカにしていると思いませんか。
 浜田市長の言う「適正な運営」とは「市民の目線」とは何を言うのでしょうか。市長の資格が問われる問題です。

 日本共産党市議団は、今後とも市長の政治姿勢を追及し公正な入札、公平な市政運営を求めがんばります。みなさんのご意見をお寄せください。


 市長が問題発言 11.7.13(水)
 公開質問状を手渡す
 5月29日に杉の井ホテルで開かれた「浜田博を励ます会」で浜田市長がこう発言しています。「私を必要としてくれる人、必要としない人がわかった。支えてくれた人に全力でお返しする。これこそが真の公正・公平だと認識した」

 6月の別府市議会で、日本共産党の平野文活市議団長などがこの発言を問題にし、「市民を応援した人としなかった人で区別する行政が行なわれたら大変だ。とりわけ入札などに適用されたら不正となる」と厳しく指摘しました。浜田市長は、差別なく公平な行政を行なうと答弁しました。

 しかし、その後私たちに寄せられた録音で、市長選挙告示直前の4月12日に中央公民館で開かれた建設4団体との懇談会で、次のような重大な発言をしていたことが確認されました。

 「私は、公正・公平の思いをこれまで間違っていたと気づきました。一言いいます。8年前市長に就任したとき、私は選挙してくれた人、しない人も平等に協会の関係皆様順番に、今まで指名に入っていない人から順番に公平に入れさせていただきました。それが公平・公正だと思っていました。僕はその時点ではそれでよかったと思います。しかし、今回、二度にわたって私にドスを突きつけてきたのです。別府市の仕事はいらないということでしょ。市長には頼らない。これは考えなければいけないと。公平・公正をどう考えるかをしっかりと考えなければならない。お世話に、ご恩になった人にしっかりご恩返しをする。この姿勢でがんばっていきたいと思います。どうぞ皆様、あたたかいご支援を今一度、浜田博に与えてください。働く場を与えてください。お願いします」

 公開質問状
 これは露骨な利益誘導であり、応援しない業者には仕事はやらないという、脅しの発言です。しかも、公平・公正であるべき入札に、不正に介入するという宣言でもあります。過去にも、市長選挙のたびに反市長派は仕事が干されると、巷で言われてきましたが、このように現職市長の口から公然と言われた以上、見過ごすことはできません。このような悪弊はもう断ち切るべきです。

 こういう立場から、私たち日本共産党市議団(平野文活・えんど久子)は、

1)一連の発言は、明らかに不見識であり、撤回すること。
2)入札の公正を補償する措置を講ずること。

 この2点を申し入れ、7月15日までに回答を求めて、公開質問状を提出しました。友永副市長に7月11日(月)に提出し、友永副市長は「市長に伝えます」と答えました。

 仕事がなければ業者さんは死活問題です。このようなおかしなことがまかり通る別府市を早く変えていきたい。そのためにがんばります。


 宮城県に行ってきました-5 11.6.4(土)
 野蒜(のびる)、七ヶ浜町など、太平洋に面している地域はものすごい津波の被害を受けています。
 七ヶ浜町。瓦礫だらけになった田んぼ
 七ヶ浜町の菖蒲田浜海水浴場付近は、民宿や住宅がたくさんあり、向こうが見えなかったのに向こうが見えるようになってしまったのです。土台だけが残った家がほとんどで、松林も根こそぎもぎ取られていました。
 新しい家だけは外観は残っていますが・・とてもとても使えそうにありません。

 「道路から松林で海が見えなかったのに見えるようになった。海水浴でにぎわっていたのに。松島もすごい観光客だったのに……」と、案内してくださった方が悔しそうに教えて下さいました。
 花渕浜漁協も全壊です。2ヵ月半たった今も、屋根の上に船が乗ったままでした。

 宮城県多賀城市大代公民館。アルバムなどが拾い集められた
 本当に心が痛み、何とも言葉にならない辛い思いでした。今も避難生活を余儀なくされている方だけで、10万人を超えるのですから、政治の責任は重大です。
 大変なご苦労をされてる被災されたみなさんに、心からお見舞いを申し上げます。
 七ヶ浜町 電柱が折れて家は土台だけ
 被害状況をカメラに収めていると、走る車の中から小学生でしょう、「写真なんか撮るな!」と大きな声で言われました。そうですね。被災し苦労されている方や大切な方を亡くした方にとっては、失礼な話だろうとも思います。それでも、申し訳ない気持ちもありつつ、撮らせていただきました。
 多賀城市宮内。バスや大型トラックが住宅地に流されてきた
 未曾有のこの大災害、痛苦のこの被害を伝え残すことで、これからの被害を食い止めることにつなげたい、支援にもつなげたい、という思いで、HPにもあえて掲載させていただきます。
 辛い経験を話してくださり、受け入れてくださった地元のみなさんの思いに応えるためにも、何としても教訓として今後に活かしていかなければなりません。

 私もまずは6月の別府市議会で、そのためにがんばります。


 宮城県に行ってきました-4 11.6.3(金)
 瓦礫の中から見つけたアルバムなど(多賀城市大代地区公民館)
 日本共産党は、被災地でも国会でも全国でも、被災者のみなさんを支援し、声を聞き支援制度の改善にがんばっています。

 私と同時期に宮崎から来た若い人たちは石巻で泥だしやがれき撤去をしたようです。一般のボランティアのみなさんや自衛隊もがんばっています。今後も、ぜひたくさんのみなさんが支援に行っていただきたいと思います。
 私は別府の社会福祉協議会でボランティア保険に490円で入って行きました。(補償期間来年3月末まで)

 5階建ての地区委員会ビル
 日本共産党の九州からのボランティアは、5階建ての日本共産党塩釜・多賀城・宮城・黒川地区委員会(長い名前!)の4階に女性が、5階に男性が宿泊します。布団や畳もあります。
 市役所の目の前で、本塩釜駅からも西塩釜駅からも歩いて行けます。
 私たちは、熊本から来たメンバーと一緒に、当番制で自炊しました。
 がんばって再開した店も(塩竈市中心部)
 お店も開いています。地元の議員さんの要望で「地域貢献にぜひ外食してください」とのことで、お寿司屋さん(苦労して再開したそうです)に行ったりしました。
 お風呂屋さん(古いけど)も近くにあります。事務所内のお風呂もあり、シャンプーなどもあります。大分から一緒に行った田辺さんは、シャンプーなどを事務所にカンパしてくれましたよ。

 塩竃の床上浸水した高齢女性の言葉が印象的でした。「みんなで力をあわせなきゃ生きていけないんだから。自己中心は3月11日で終わりだよって私はみんなに言ってんだぁ」


 内閣不信任案に棄権しました 11.6.2(木)
 キンポウゲ(金鳳花)
 6月2日朝のテレビでは菅内閣不信任案に「民主数十人造反か」と報じ、「小沢さんが『金のことは心配するな』と民主党の若手議員に言った」などということまで言われ、夜には菅さんはいつ辞めるのかと……。

 こんな時に本当にうんざりですね。そんなことで大騒ぎしてる場合か、小沢さんもそんなお金があるなら復興に使ったら、と言いたいですよね。ますます政治不信がひろがりますよね……。

 日本共産党は、不信任案に棄権しました。

 6月1日野党党首会談で日本共産党の志位委員長が自民党の谷垣総裁に「内閣総辞職を求めるとすれば菅内閣に代わってどういう政権を作るのか、政権構想を具体的に示してほしい」と言ったら、谷垣氏は「被災地の状況をみたら、解散を求めるわけにはいかない。確固たる展望を持っているわけではない」と答えた、というのです。
 あきれてものが言えない……。無責任極まりない態度です。


 宮城県に行ってきました-3 11.6.1(水)
 避難誘導の看板
 東日本大震災では1万5256人もの死亡が確認され、行方不明者は8565人(5月28日現在)など、甚大な被害がでてしまいました。

 宮城県では1960年のチリ地震や1978年の宮城県沖地震での津波など、度重なる津波被害を経験しているため、津波の際の避難誘導案内掲示板がいたるところにあります。年1回の訓練という話も聞きましたが、地域で訓練もされているようです。それでも、これだけの被害がでてしまったのです。この教訓に何を学んだらよいのでしょうか。

 野蒜駅前で。信号は倒れ2時46分で止まっている
「松島やああ松島や松島や」の句で知られる松島で有名な東松島市。海岸に面した野蒜(のびる)地域は壊滅的な被害を受けていました。まだ、線路も復旧されていません。野蒜駅の時計は2時46分で止まり、信号も倒れていました。

 野蒜駅前で作業の休憩中だった地元の若い男性は、通りすがりの私たちにこんな話しをして下さいました。

 東松島野蒜駅の避難看板
 「鳴瀬第2中学と野蒜小学校に避難することになっていて訓練していたが、中学校は海が近いからダメだと多くの人が野蒜小学校に避難した。

 校舎に250人、校舎がいっぱいだということで体育館に150人が避難した。体育館が津波をかぶり、体育館で高齢者など20人から30人が亡くなった。寒いので校庭に車を止めてエンジンをかけて車の中にいた人も津波にのまれてしまった。

 野蒜で350人ほど亡くなり、約80人が行方不明になっている。自分も消防団員だが、誘導していた消防団も3人亡くなった。

 靴を脱いで体育館に避難した人は靴がなく大変だった。海から遠いかんぽの宿に逃げた人は無事だった。この目の前の東名(とうな)運河での遺体の捜索がきのうで終わった。この経験を伝えないといけないと思う」

 東松島市野蒜。避難誘導の案内板も壊れてしまった
 辛い経験をどこの誰ともわからない私たちに話してくださったのは、教訓として活かさなければならないという思いが強いからでしょう。

 ここで学んだことを別府の防災に役立てるため、がんばりたいと思っています。


 宮城県に行ってきました-2 11.5.31(火)
 多賀城市の藤原ますえい市議(中央白いシャツに白いズボン)、柳原清市議(右端)、佐藤惠子市議(右から二人目)らと。藤原さんの右は大分県杵築市議の加来たかしさん
 被害が比較的少ない地域でも、ライフラインが復旧するまでの期間(ある地域では2週間ほど)、みなさんご苦労されています。

 塩竈市のある女性は「地域の集会所で自宅から食料を持ち寄り、婦人会で毎日炊き出しをした。本来は小学校の体育館が避難所になっているが、体育館は和式トイレで、お年寄りは2日間で無理だと集会所に戻ってきた。地域の集会所の方がプロパンガスだから調理ができる。体育館では調理ができないので、パンやウインナーなどそのまま出す。集会所ではトーストにしてジャムつけて、おやつも……と、小さいところが行き届く」と話していました。

 支援物資や赤旗を積んだ佐藤惠子多賀城市議のバイク
 塩竈市の日本共産党議員は5人もいます。曽我ミヨ市議は7期28年のベテラン。地域の自主防災組織の班長もしていて、3月11日は近所のお年寄りを車に乗せて避難させたり、暖を取るための木材を知り合いの業者さんに頼んで避難所にトラックで運んでもらったりしたそうです。

 藤原ますえい多賀城市議は、26歳から28年間議員をしているそうで、4人の市議団の団長さんです。

 「みんなで毎日おにぎりを150〜200個作って、保温箱に入れて瓦礫が残る道をバイクで何度も何度も届けた。『わぁ、あったかい!』と喜ばれてね。多賀城市は600ヘクタールが水に浸かって、その半分は工場地帯。輸出する新車もみんな流されて、この狭い多賀城市に5000台の流された車があふれたんですよ。桜木の地域は表札くらいまで水に浸かって、ずっと2ヶ月桜木に支援に入っていた。電話も携帯も通じないから、議員同士も連絡も取れなくて、会いに行くとバイクのガソリンがなくなるし……」

 と、運転しながら話してくれました。

 日本共産党塩竈市議団や多賀城市議団が発行しているニュース
 多賀城民報を震災後も毎週発行しています。このビラで市民は多賀城の被害の全体像を初めて知ったそうです。

みなさん、すごい活動されています!本当に本当にお疲れ様です。


 宮城県に行ってきました-1 11.5.30(月)
 5階建ての地区委員会にて。塩釜市議の中川邦彦市議(左端)、小野絹代市議団長(左から2番目)、曽我ミヨ市議(私のすぐ後ろ)、今石やすよ宇佐市議(赤いシャツ)、天下健(あましたたけし)地区委員長さん(後ろ紺色のベスト)、大分市の山下かいさん(右端)らと。平野文活別府市議も行ったのに、ほぼ入れ違いの日程で一緒に写真をとるのを忘れてしまった……。
 宮城県塩竈市に5月24日から28日滞在し、お手伝いさせていただきました。平野文活別府市議も、22日〜25日現地で活動しました。お手伝いよりも、こちらが勉強させていただき、地元のみなさんにとても感謝しています。

 塩竈市や多賀城市の日本共産党議員や支部の方と一緒に活動しました。みなさん、自宅に被害がある方もいますが、休みなく支援に飛びまわりすぐに要望に対応しています。私たちは、地元の方と一緒に制度をお知らせするビラを持って訪問し要望を聞いたり、支援物資を運んで青空市を開いたりしました。

 塩竈市内は湾の中で、津波の勢いは弱まってはいるのですが、やはり大変です。

 屋根の上に船──七ケ浜町花渕浜
 「寝たきりのおばあちゃんを、ふすまを外して担架にして消防団の人と一緒に車に乗せて避難した。家族はみんな無事だったからよかったけど、家は浸水して車2台が流された」

 「地震で割れたガラスを片付けていたら水が入ってきて、一気に水が来たからびっくりして……」

 ──などのお話を聞きました。一度は逃げたが、寒いので防寒着や保険証などを取りに行き、第二波の津波で流されてしまった人も多いそうです。

 東松島市野蒜(のびる)
 私が玄関に立った状態でおでこの位置に水の跡があるお宅にも訪問しました。私は151cmなので140cmくらいの浸水です。
 その家の方は「放送があったけど、いつもの経験からこんなに水が来るとは思わず家にいた。やっと2階に逃げた。何にもない。服もいただき物を着てるのよ」と、自宅の2階で生活されていました。
 みなさん、どんなに怖かったことでしょうか。その後も、どんなに大変だったことでしょうか。もっと早く来れればよかったのに、と思いました。

 チリ地震の津波を経験されている高齢の女性は、「津波が来るまで30分あったから、孫と二人で急いで布団や米や一張羅の服を2階に上げてから高台に避難した」と言っていました。親戚をなくした方も多く、それでも、みなさん「ウチはまだ家に住めるからね。家が流された人も多いし、福島の原発の近くも気の毒だよね」と言います。

 多賀城市大代にて。多賀城共同支援センターの青空市。支援物資を手渡す私えんど久子(右端)、大分市の田辺直子さん(右から2番目)、杵築市議の加来たかしさん(右から3番目)。大分県から6人が行きました
 浸水がなかった地域では、被害がないように見えても、ほとんどの家で土台や屋根などに被害があり、傾いた家もあります。
 罹災証明はすでに取っており、税務署で雑損控除の手続きをすれば、床下浸水でも車や家財道具だけの被害でも、2010年度分からの所得税軽減ができ、税金が戻ってくることなどをお知らせしました。

 「業者さんが忙しくて材料もないし順番待ち。台風や梅雨が来るから早く修理してもらいたいけどね。もっとひどいところが優先だよね」とも……。
 台風2号の影響が心配です。


(注)しおがま市は塩釜、塩竃、塩釜、塩竈、鹽竈と表記され、いずれもが実際に使われています。市の公用文では塩竈に統一されているそうですが、画数が多く難しいため塩釜も多く見られます(郵便、JRなど)。


 東日本大震災復興ボランティアに行ってきます 11.5.23(月)
 カノコソウ
 3月11日に起きた東日本大震災。
 2ヶ月以上たった今も11万人を越える被災者が大変ご苦労されています。毎日の報道に心が痛みます。

 私は少しでも被災地のみなさんのお役に立てばと、5月24日から28日まで宮城県塩竃市で、ボランティア活動に参加することにしました。

 大分県から、平野文活市議団長・山下かいさんら6名が参加します。
 支援物資も届けます。自費での参加です。
 ボランティア派遣のためのカンパに、ご協力いただければありがたいです。

 現場に足を運び、直接声をお聞きし、学んだことを別府で活かしたいと思います。


 アルゲリッチ音楽祭 11.5.22(日)
 アルゲリッチCD
 5月19日、第13回アルゲリッチ音楽祭の最終日、コンサートを聴きに行きました。

 実は初めて聞きに行ったんですが、とても感動しました。
 とても迫力があり、ひとつひとつの音を心をこめて演奏されて、すばらしかったです。東日本大震災後、一時は開催が危ぶまれたそうですが、アルゲリッチ総監督が「こんな時だからこそ開催を」と主張されたそうです。

 花束
 マルタ・アルゲリッチ総監督、そして、日本の若い学生さん(桐朋学園オーケストラ)とモスクワ・ソロイスツ合奏団による特別合同オーケストラが、心をひとつに演奏。
 大巨匠と呼ばれるアルゲリッチさんら一流の音楽家と若い音楽家が、国境や言葉の違いを越え、力をあわせて心ひとつにすばらしい音楽を作り上げる、その姿にも感動しました。会場からは拍手が鳴りやまず続きました。

 コンサートのあと、別府商業高校の吹奏楽部が2階席からバースデイソングを演奏し、アルゲリッチさんの誕生日をお祝いする場面もありました。

 こんなすばらしい音楽祭が、毎年別府で開催かれることは本当にありがたいことだと思います。
 努力をしていただいている関係者のみなさんに感謝しています。

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